ドン・ボスコ
1888年1月31日、イタリアのトリノで、当時カリスマ的存在であった「ドン・ボスコ」という神父がこの世を去った。
彼の興した教育事業は今や世界的な規模をもち、日本を含めて100以上の国々に広まっている。
その「予防教育法」は教会の内外で注目され、ミッション・スクールや日本の教育界に多くの示唆を与えている。
現代、その精神を受け継ぎ、継続させているのは「サレジオ会」と「サレジオ家族」である。
そして、1926年、これらの教育団体が日本にもたらしたのが、「日本のドン・ボスコ」といわれるチマッティ神父であった。
ドン・ボスコの時代
カトリック教会において「青少年の父・カトリック教育の師」と呼ばれる「ドン・ボスコ」(正式名「聖ヨハネ・ボスコ」)は、1815年8月16日、北イタリアのピエモンテ地方、カステルヌオヴォ市郊外、ベッキ村の貧しい農家に生まれた。
ナポレオン後の政治的不安定の時代、イタリア統一運動で教会と政府とが対立した時代、産業革命により労働問題が激化した時代であった。19世紀後半、日本も鎖国政策を放棄し、明治維新により世界と肩を並べようと、工業化や近代化を推し進め、国民教育に力を入れた時代であった。
キリスト教の宣教活動が日本で復活し、教会が教育に力を入れ始めた時代でもあった。時あたかも、ドン・ボスコは教育の新しい道を開いた。
その事業の始まり
その教育事業の始まりは1841年12月8日とされる。その日、司祭になったばかりのドン・ボスコは最初の貧しい少年に出会った。
当時、多数の若者たちが農村を離れ、仕事を求めて大都会に流入してきていた。ドン・ボスコは、彼らが道に群がり、暗い表情で悪事を働く姿を見た。中央市場に「若い労働力の市」があり、建築現場や工場主たちは若い労働者や少年を雇い、1日半リラで12時間ないし16時間も働かせていた。トリノ市内の労働者の平均寿命は19歳だったという。これこそ、「産業革命」がもたらした結果であり、その数年後、共産主義運動が生まれてきたのである。
ドン・ボスコは刑務所をも見てきた。「私は、健康で才能のある12歳から18歳までの多数の少年が、何することもなく、しらみやのみに蝕まれて、身体と精神の糧を欠いている状態を見て恐ろしくなった」と書いている。この若者たちを救うために彼は一生を捧げることを決心し、「オラトリオ」という新しいスタイルの教育事業を始めた。初めは定まった場所がなかった。それでも、ドン・ボスコの魅力にひかれて、一年で数百名の生徒が集まるようになった。彼自身が若者の拠り所となり、借りた場所は運動場、夜間学校、仲間作りと祈りの場となっていた。しかし、こういう若者たちの集まりは周りの人々から白い目で見られ、ドン・ボスコは5年の間、次々と場所を変えなければならなかった。市当局からも教会内の一部の人々からも危険視されるようになったのである。
1846年、ついに貧しい納屋を手に入れた。それがこの世界的事業の発祥地となった。有志の人々の協力を得て、この「オラトリオ」に寮、職業学校、普通科学校などが併設されることになった。
サレジオ会の創立
この事業を発展させるため、ドンボスコは「サレジオ会」という教育修道会を考え出した。
教え子たち自身が最初の会員となり、協力者となった。会の正式名は「聖フランシスコ・サレジオの会」とした。
これは、この聖人が明るく、愛情深い人であったからである。1874年、教会は正式にこの「サレジオ会」を公認した。
ドン・ボスコは、当初から実践してきた自分の教育法を「予防教育法」と呼び、それがサレジオ会の教育理念となった。
マザー・テレサのような人
ドン・ボスコの事業は当時の社会に大きな反響を呼び起こし、海外からも同じ事業を設立する要望が相次いだ。そのため、神の助けと人々の善意のを頼りに、彼自身も積極的に人々の協力を呼びかけた。
1883年2月、健康状態が危いにもかかわらず、4ヵ月フランスを巡り、4週間パリに滞在した。大作『ああ、無情』で有名なビクトル・ユーゴーもドン・ボスコを訪れた。『フィガロ』紙が書いた。「ドン・ボスコが泊まっている家の前には、一週間も、一日中車の列が並んだ」と。
ル・マダレヌ大聖堂で彼が説教したとき、フランス語を上手に話せなかったにもかかわらず、入りきれないほどの人々が堂を埋めつくした。新聞は書いた。「王でもこれほどの歓迎を受けないだろう」と。当時の写真を見ると、顔は疲れきっているが、現代のマザーテレサのように、人々を引きつける力があった。それでも、思い上がることなく、帰りの汽車の中でルア神父に、「ルア君、覚えているかね。ベッキ村の小さな家を。あの貧しい家に僕は母と一緒に住んでいた。小さな畑があり、そこで二頭の牛を飼い、百姓をやっていた。もしパリの偉い人たちが、こんな田舎の百姓を歓迎したと知ったら、どう思うだろうね」と語ったという。
ある政治家が言った。「もしも、この人が神父ではなく、政治家、学者、事業家になったなら、イタリアだけでなく、全ヨーロッパの中で、超一流の人物になったであろう」と。しかし、ドン・ボスコが神父でよかった。そのため、今も「過去の人」ではなく「時の人」なのである。
1888年1月31日、72才で帰天した。教会は、この偉大な教育者の聖徳を認め、「聖ヨハネ・ボスコ」「若者の父・カトリック教育の師」と讃えている。
ドン・ボスコと日本
1885年、死ぬ3年前、ドン・ボスコは一つの夢を見た。その中に自分の事業の未来が示されていた。世界一周をする形で、次々といろいろな国、民族、町が現れた。南アメリカ、アフリカ、オ-ストラリア、ペルシャ、インド、中国など。そして、北京の次に、「広い海に面してそびえ立つ高い山と、『メアコ』という町。広いグラウンドには子供たちが遊んでいた」という。ドン・ボスコの口からその夢を聞いた人が、こう記録している。「ドン・ボスコは老いて記憶力が衰え、町の名前を間違えている。たとえば、「マカオ」の代わりに「メアコ」と」。
しかし、間違ったのは記録した人の方である。「メアコ」は正しい。「マカオ」には「広い海に面してそびえ立つ高い山」がないからである。のちにフランス地理学界の名誉会員にもなったドン・ボスコは、そのとき間違いなく日本を見ていたのである。1885年に日本はすでに欧米の関心を引いていた。1862年に日本26聖人が列聖され、1867年、長崎でキリシタンの子孫が発見されている。1848年、ドン・ボスコは『教会史』を著したが、その中で日本のキリシタンについて何ページも裂き、「たいこうさま」や「高山うこんどの」など、キリシタン迫害のことも記していた。出典は、1825年トリノで出版されたイエズス会員バルトリ著『アジアのミッションの歴史』であろう。その日本編は厚い5巻からなっている。1867年、204名の日本の殉教者がローマで福者とされたとき、ドン・ボスコ自身は参加できず、代わりに2名の会員を派遣した。1870年に出た『教会史』の改訂版の中に26聖人一人ひとりの略伝を入れ、その中に10数回も「メアコ」ということばが出てくる。それは、キリシタン時代の「都」のことであった。当時の文献には「メアコ」と記されている。ドン・ボスコは確実に日本に関心をもち、夢の中で日本のサレジオ会の未来を見たのであった。
今、その夢が実現され、日本にはいくつものサレジオ会の事業がある。
ドン・ボスコ伝
「ドン・ボスコ伝」は、世界各国で出版され、その数は1000種類にも及んでいる。また、その霊性やその教育法を直接に論ずる書物は、30000点ほどあると言われる。
日本語で入手できるものの中では、特にオフレ?著『聖ドン・ボスコ』が優れている。
海外でよく読まれているテレジオ・ボスコ著『新しいドン・ボスコ伝』は、残念ながらまだ翻訳されていない。
ドン・ボスコ自叙伝
これは必読の書である。正式の題名は『1815年から1855年にかけての聖フランシスコ・サレジオのオラトリオ回想録(メモリエ)』となっている。ドン・ボスコは、教皇ピオ9世の命令を受け58歳でこの本の執筆に着手した。物語形式で最初の40年の歴史を記した。
しかし、この本は長年公刊されず、73年間もサレジオ会資料保管所に眠ったままであった。トン・ボスコは、自分の子らへの「教訓」として書いたので、公刊しないように命じたからである。しかし、1946年、内部の資料として出版され、後になって、一般の人々にも公開された。
- モアの人であったドン・ボスコは、教訓も楽しい「物語」にする。いくつかのエピソ-ドは明らかにおもしろおかしく語られ、楽しんでいるドン・ボスコの笑顔を目の前に浮かばせる。
内容は本質的に史実であるが、写真や録音のようなものではない。彼は解釈と考察を加え、そこには常に教育的な配慮が見られる。自分の子らを論し導くためである。
この本は1989年に邦訳された。
1983年、ドン・ボスコの史実を伝え、彼に関する資料を本格的に整理し研究するため、ローマのサレジオ会本部に「ドン・ボスコ歴史研究所」が創設された。
ドン・ボスコの年表
1815年 | 8月16日ベッキ村で生まれる。 |
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1817年 | 5月11日父を失う。家庭は一層貧しくなる。 |
1823年 | 将来、子供を教育する夢を見る。 |
1831年~35年 | キエリ市で下宿し、アルバイトしながら中・高等学校に通う。 |
1835年~41年 | キエリ市の神学校で学ぶ。 |
1841年 | 6月5日司祭となり「ドン・ボスコ」と呼ばれる。 |
1月3日トリノの司牧実習学校に入る。 | |
12月8日最初の少年に出会い、「オラトリオ」を始める。 | |
数カ月で数百人の若者が集まり、場所を探しながら転々と移動する。 | |
1846年 | 4月12日粗末な納屋を購入し、「オラトリオ」が定住する。 |
7月、過労で倒れたが、奇跡的に助かり、安静を命じられる。 | |
11月3日、母マルゲリタを連れて、トリノに帰る。 | |
1847年 | 5月、貧しい青年のための寮を開設 |
1850年 | 労働者の共助組合を作る。 |
1852年 | 聖フランシスコ・サレジオの聖堂を建てる。 |
1853年 | 月刊『カトリック講話集』の出版を始める。 |
1854年 | 教え子数人が「ドン・ボスコのようになりたい」と言うようになり、サレジオ会の試案を練る。 |
製本学校を始める。 | |
1855年 | 中学校を始める。 |
1856年 | 木工学校を始める。 |
1858年 | ローマで教皇ピオ9世に修道会の計画を打ち明ける。 |
続いて、死ぬときまで20回もローマへ旅をする。 | |
1859年 | 正式にサレジオ会を創立する。 |
1860年 | 教え子ミケレ・ルアが最初のサレジオ会員司祭となる。 |
1861年 | 印刷学校を始める。 |
1862年 | 機械学校を始める。 |
1863年 | ミラベロ市でトリノ外の最初の学校を開く。次々と他の学校が続く。 |
1864年 | 財布の中の半リラだけで、扶助者聖母の大聖堂を着工する。 |
1868年 | 扶助者聖母の大聖堂を完成し、献堂式を行なう。 |
1871年 | 8月5日サレジオ会の姉妹会「扶助者聖母マリア修道女会」を設立する。 |
1874年 | 4月13日サレジオ会が承認され、教皇直轄の修道会となる。 |
1875年 | 11月11日南米に最初の宣教師たちを派遣する。 |
1876年 | サレジオ会の第三会「協力者会」を創立する。 |
青少年の教育について『予防教育法』という小論文を著す。 | |
1877年 | 扶助者聖母修道女会の最初の宣教団が出発する。 |
1880年 | 教皇レオ13世はローマで「聖心の大聖堂」の建設をドン・ボスコに願う。 |
1885年 | サレジオ会の発展について夢を見る。 |
1887年 | 「御心の教会」の献堂式のためローマへ最後の旅をする。 |
1888年 | 1月31日ドン・ボスコ帰天。 |
サレジオ会の事業は、イタリア、フランス、スペイン、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルにまで広まっている